世界を舞台に活躍する人物たちの“ことば”から、生きる“ヒント”を。
Everyone is my mentor.
人物
本名:Stephen Gary Wozniak(ステファン・ゲーリー・ウォズニアック)
生誕:1950‐8‐11(アメリカ‐カリフォルニア州‐サンノゼ)
職業:エンジニア(Apple Inc. 共同ファウンダー)
こころ そっと 揺れる ことば
スティーブ・ジョブズの訃報にふれて・・・
唖然としたよ。
ビートルズがエド・サリヴァン・ショーに出演した時や、ジョン・F・ケネディの暗殺を知った時と、同じくらい、強烈に記憶に残ってる。
レポーターから電話が掛かってきて、「知らせ、聞きました?」と言われ、その言葉の意味が、すぐに分かった時の記憶は、決して忘れることはできない。
本当に、ショックだった。
世界が、ジョン・レノンを失ったみたいに。
スティーブは、明らかに、傑出したビジネス思想家だった。
テクノロジービジネス界の上層の誰もが、彼の才能を認めてたんだ。
彼は、僕らが、今持ってる技術を改善するだけじゃなく、世界を変えてしまうくらい全く新しい技術を、考え出すことに秀でてた。
昔のことを思い出すね。
僕らは、いつも、一緒にいた。
ものすごく楽しい時間だった。
システムをいじくったり、ちょっとしたイタズラをやったり、いろんなことをやったよ。
彼は、いつも、考えてた。
開発中の初期の製品や、その構成部品が、僕らを、どんな未来へ導くのかを。
彼は、いつも、エンジニアの僕を、押し上げてくれた。
「これは、いつか、導入できるかな?」
「それはどう?」
「うん、うん、うん。」と返事してたけど、内心「いや、絶対ムリ。」と思ってた。
でも、ついに、僕らは、やり遂げたんだ。
お互い、僕らは、お金のない若い頃に出会った。
アルバイトをやらざるを得なかったし、お金を借りる当てもなかったし、ビジネス経験すらなかった。
僕らは、自分たちのアイデアで、いつか、ビジネスを興せると夢見てる若者だった。
僕らは、そうだったんだ。
iPhoneやiPadやiPodといったアップルの製品は、どれもみな、信じられないくらい、人生を、何度も、何度も、何度も、変えた。
このテクノロジーに目を向けた誰もが、スティーブ・ジョブズを見て思うだろうね。
いったい彼は、どこで、こういったアイデアを得たんだろうって。
僕らは、運よく、パートナーになった。
当初こそ、彼には、僕がいて幸運だった。
けど、今や、僕の人生のすべては、彼のおかげだ。
彼は、強引で、生意気な印象を与えるけど、僕にとっては、いつも、とても優しく、とても良い友達だった。
彼がいない今は、本当に、寂しいよ。(インタビューを終え、目頭を押さえる・・・)
感想
今や、世界的企業となったApple社(本拠:アメリカ、SE:NASDAQ)。
2018年1月末時点での、世界時価総額ランキングでは、ラリー・ペイジ、セルゲイ・ブリンの率いるGoogle社のホールディングカンパニーであるAlphabet(本拠:アメリカ、SE:NASDAQ)、ビル・ゲイツ、ポール・アレンの率いるMicrosoft Corporation(本拠:アメリカ、SE:NASDAQ)、ジェフ・ベゾスの率いるAmazon.com(本拠:アメリカ、SE:NASDAQ)、馬化騰の率いるTencent Holdings(本拠:中国、SE:香港)を抜いて、堂々のトップの座に君臨。
時価総額は、約86兆円にのぼる。
Appleと耳にすれば、その誰もが、リンゴ、もしくは、スティーブ・ジョブズのことを連想するであろう。確かに、Apple=スティーブ・ジョブズと考えてしまうのも、無理はない。
しかし、Apple社が、世界ナンバーワンの多国籍企業となれたのは、ある男の存在なくして、語ることはできない。
その男とは、ジョブズ最大のパートナーであり、「ウォズ」の愛称で親しまれている、スティーブ・ウォズニアックのことだ。
本稿では、彼の功績にスポットを当て、Apple社の“影の立役者”、Apple社の“縁の下の力持ち”と考えられる、ウォズニアックについて、採り上げる。
上記は、ジョブズの訃報を知った、翌日(2011年10月6日)のインタビュー。わずか3分足らずのものであった。
始めてこのインタビューを耳にした時、心揺れた言葉がある。
「けど、今や、僕の人生のすべては、彼のおかげだ。」
幼い頃から、典型的な技術オタクであったウォズニアックは、Hewlett-Packard Companyの夏季インターンシップにて、ジョブズと出会う。
1971年のことである。
容姿も、性格も、真逆の二人であったが、すぐに意気投合したと言われている。その後、共に、起業への道を歩むことになる。
あまり知られていないが、“AppleⅠ”及び“AppleⅡ”をほぼ独力で開発した人物こそが、ウォズニアックである。
“AppleⅠ”は、Apple社が一番最初に製作し、世に解き放ったマイクロコンピュータだ。“Ⅰ”と名付けられているのは、その所以である。
“AppleⅠ”は、チップを実装済みの回路基板として生産、販売(1976年)されたものの、筐体は無く、キーボード、トランスを購入者自身で用意し、組み立てなければならない機種であった。
後継機となった“AppleⅡ”は、個人向けに、完成品として、大量生産、大量販売(1977年)された世界初のPCである。ある種、現在のPCの先祖だ。
“AppleⅡ”は、キーボード、CPU、メモリ、画像出力装置、音声出力装置、外部記憶装置とのインターフェース、プログラミング言語などを単一のパッケージとして内蔵した、最初のオールインワンタイプのコンピュータ製品であった。
誰でも、買ってきて、電源スイッチさえ入れれば、コンピュータとして使え、機械語等のコンピュータ言語の知識も必要ない機種であった。現在のPCの要素が、初めて単一のパッケージとして集約されたプロトタイプの一つと言っても過言ではない。
“AppleⅡ”の販売台数は、毎年、倍々ゲームで増加の一途を辿り、Apple社に莫大な利益をもたらしたとされ、現在のApple社の、礎を築いたと言われている。“AppleⅡ”のビッグヒットにより、1980年、Apple社は、IPOを果たす。
このような流れを理解したうえで、もう一度言う。
“AppleⅠ”及び“AppleⅡ”は、いずれも、ウォズニアック自身が、芸術的と称される設計センスで、ソフトとハードの両面において、ほぼ独力で開発を行ったという事実だ。
このことだけは、忘れないで欲しい。
もう一つだけ、忘れてはならないエピソードがある。その逸話は、Apple社のIPOの時に遡る。当時、Apple社の株を保有していたのはファウンダーと一部のマネージャーだけ。しかし、ウォズニアックは、ストックオプションの権利を持たない従業員のために“ウォズプラン”という形で、彼の保有分から1人2,000株まで株を買えるよう取り計らったとされる。他の経営陣から非難を受けたウォズニアックであったが、この時の心境について、以下のとおり、コメントしている。
「おかげで家を買ったり、子どもを大学に通わせたりできた、と多くの感謝を受けた。やった甲斐があった。」
エンジニアは、テクノロジーを駆使して、イノベーションを興すことに強い関心を抱く。これは、地位、名誉や金銭などの欲に囚われず、いかにして世の中をより良くするかといった、言わば、“未踏の地”への興味が強いからではないか。
ウォズニアックは、エンジニアである。
彼は、その性分に、ピュアに、従っただけなのかも知れない。
共に歩んでくれた仲間たちのために、このような粋な取り計らいを、さらっとしたいものだ。
1985年の冬、ウォズニアックは、Apple社を去って行く・・・。
「人は、出会うべき人には必ず出会う。しかも、一瞬遅からず、早からず。しかし、内に求める心なくんば、眼前にその人ありといえども縁は生じず。」
国内の著名なアントレプレナーや政治家に多大なる影響を与え続けている哲学者であり、教育者でもあった、今は亡き森信三先生の大好きな名フレーズ。
世の中を変革するような価値あるプロダクトを創造するためには、パートナーが必要となる。彼らが、出会うべきタイミングで、出会うべき人とめぐりあえたからこそ、最高最善なパートナーシップが結べたのだろう。
おそらく、彼らの間にも、事業経営のなかで、さまざまなことがあったはずだ。
しかし、ウォズニアックは・・・
「けど、今や、僕の人生のすべては、彼のおかげだ。」と爽やかに語っている。
人は、出会うべきタイミングで、出会うべき人と、出会う。
そして、出会ったその人に、感謝するという気持ちを、絶対に忘れてはならない。
潤いのある人生とは、心から感謝のできる人に出会えるか、ということではないか。